日曜日, 9月 05, 2010

溝口健二「新・平家物語」(1955)

溝口健二の「新・平家物語」(1955)  



平清盛が武士の時代に目覚めるまでを描いた作品。

溝口は美しい画面にする演出に長けているけども、たまにどうしようもなく退屈になるというのが溝口の作品全体に対する、観客としての本音な気がする(特に文芸物)。

「新・平家物語」は、退屈しない溝口作品の一つである。

巨匠溝口の演出については色々な人が議論しているだろうが、個人的にこの作品は、演出よりも話そのものに興味を持ってしまった。

平清盛が、全く武士の地位の低かった頃に、威張っている公家や僧侶(寺院)の中身の無さに気付き、武士の時代を築き上げる野望を抱き立ち上がるという話な訳だが、映画を観ている途中でBBCかなんかで見た権力についての番組で、ある専門家が「権力は常にあなたを恐がらせ、あなたの士気を殺ごうとする」という事を言っていたのを思い出した。

映画では、坊主たちが、歴代の天皇を祭っている神輿を持っているということを自分たちの正当性を主張する道具として使っている。そして最後に平清盛が、「この神輿に弓を向けたら呪われて死ぬ」みたいなことを言われても臆せず弓を射ることによって、僧兵達の主張全てを打ち砕く。

この後映画は、踊る公家を見て、「今のうちに踊っておけ、今に我らの時代が来る」みたいな事を言う清盛で終わる。公家は武士の力を借りなくては荘園の管理も出来ないのに、ただ「身分が高い」というだけで偉そうにしているわけだが、その公家は身分という「伝統」と「朝廷」という物を傘に立てて他のものを「恐がらせ」、従わせるのである。僧兵が神輿の神がかった力で他を「恐がらせ」て従わせるように。

この映画の終わり方から、清盛が公家の神秘的な力をもはや信じておらず、これから彼らも打ち破って武士の時代を築くのだな、という事がわかる(皆が知っているように、歴史的に実際そうなる)。ポイントは、力と自身に溢れる人間が、「恐がらせて士気をくじく」ことによって支配する権力が「ちっとも恐くない」事に気付いた時、闘争がフェアなゲームになるということである。

簡単に言えば、我慢がならなくなったある集団が「もう、偉そうな奴等の言ってることなんてどうでもよくね?」と思った瞬間に闘争になるわけである。

「~しなくてはならない」「~でなくてはならない」といった、文化によって異なる支配的な価値観は大抵、「恐がらせて士気をくじく」のに使われる。天皇を恐がる人間、神輿を恐がる人間は21世紀にはもういない。今となっては、「昔はそんなことしてたの、ハハハ」と思うだけだろう。

ただ現代日本にある「社会人とは奴隷のように働く人間のことである」「サービス残業を文句言わずにやるのは大人として当たり前」みたいな価値観が、「恐がらせて士気をくじく」一環であるのは間違いない。「もうそんなことどうでもよくね?」と言って、そこに弓を射る人間は出はじめている気がする。

日本の歴史を左右した豪傑の物語を見て、次の時代が待ち遠しくなった。


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